第89巻シリーズ「日本の鋳物・金属に関する遺産」

Vol. 89 No. 1「薄肉鋳鋼タービンハウジング」

平成28年度Castings of the Year賞受賞作
アイシン高丘株式会社

 

 

 

 

 


Vol. 89 No. 2「REC製法によるかご形誘導電動機のアルミ回転子」

平成28年度Castings of the Year賞受賞作
株式会社木村工業

 

 

 

 

 

 

 


Vol. 89 No. 3「韮山反射炉(静岡県伊豆の国市)」

天保11(1840)年のアヘン戦争を契機に,日本では列強諸国に対抗するための軍事力の強化が大きな課題となり,近代的な軍事技術や制度の導入が図られ始められました.嘉永6(1853)年にペリー艦隊の来航を受けて幕府も海防体制の抜本的な強化に乗り出さざるを得なくなり,それまでいろいろな進言をしてきた江川英龍を責任者として,大砲を作るための反射炉と品川台場の構築が決定されました.反射炉は当初は伊豆下田港に近い本郷村(現下田市)に造られる予定だったようですが,ペリー艦隊の水兵の侵入にあったため,急遽韮山に変更されたということです.江川英龍は安政2(1855)年にこの世を去りましたが,跡を継いだ息子の英敏により,安政4(1857)年に完成しました.

韮山反射炉は,平成27(2015)年7月,「明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼,造船,石炭産業」の構成資産の1つとして,世界文化遺産に登録されました.

 

 


Vol. 89 No. 4「旧造幣寮鋳造所正面玄関(大阪府大阪市)」

明治維新後,新政府は新たな貨幣制度を整えるために,その基礎となる統一貨幣の製造工場「造幣寮」を大阪に作ることを決定,英国技師T. J. ウォートルスが設計・監督にあたりました.日本初の近代的工場として,煉瓦製造から始まり,貨幣鋳造工場や接待所「泉布観」のほか,鉄道馬車,電信架線,地金溶解用のコークス窯などの施設が次々に造られていきました.これは我が国最初の本格的な西洋式の大工場群となり,明治4年(1872年)に落成式を迎えました.その中心的な建物が鋳造所です.

 鋳造所はギリシャ建築を思わせる円柱をもつ構造で,我が国の近代建築の黎明期を飾る建築として貴重なものです.現在は,正面玄関部分だけが,泉布観とともに大阪市北区の桜之宮公園に保存されています.


Vol. 89 No. 5「萩反射炉(山口県萩市)」

萩藩では,ペリー来航後の安政年間に反射炉の導入が試みられました.安政2(1855)年に西洋学所を開設し,翌年造船所を設立して洋式軍艦の丙辰丸を建造するなど,軍備の拡充に努めました.これら軍事力強化の一環として,反射炉の導入にも取り組みました.萩の反射炉は安政5(1858)年に築造されたと考えられていましたが,記録で確認できるのは,安政3(1856)年の一時期に「雛形」(試験炉)が操業されたということだけだということです.したがって,この反射炉は試験炉であったという見方が有力のようです.

日本各地に反射炉が作られたようですが,遺構が存在するのは,第3号表紙の韮山反射炉とこの萩反射炉の2か所だけです.萩反射炉も韮山反射炉と一緒に平成27(2015)年7月,「明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼,造船,石炭産業」の構成資産の1つとして,世界文化遺産に登録されました.

 

 


Vol. 89 No. 6「鉄道局新橋工場の鋳鉄柱(愛知県犬山市 博物館明治村)」

新橋・横浜間に初めての蒸気機関車が走ったのが,明治5(1872)年です.その後,客車・機関車の国産化が進められました.鉄道施設の国産化も同様に進められ,明治22(1889)年に建てられた鉄道局新橋工場は,明治初年に建てられた鉄道寮新橋工場にならい,イギリスから資材を輸入して造られました.日本で製作された鋳鉄柱,小屋組鉄トラス,鉄製下見板,サッシ等を組み立てたもので,屋根は銅板で葺かれています.

 

 

右の写真は明治22(1889)年に鉄道局で造られた鋳鉄柱で,「東京鉄道局鋳造」の鋳出し文字が入っています.博物館明治村には,明治初年に建てられた鉄道寮新橋工場も保存されていて,この鋳鉄柱には,LiverpoolのHamilton’s Windsor Ironworksの銘が入っています.

 

 


Vol. 89 No. 7「石見銀山(島根県大田市)」

石見銀山は戦国時代後期から江戸時代前期にかけて最盛期を迎えた日本最大の銀山です.大永6(1526)年に発見され,本格的に開発が開始されました.最盛期には世界の銀の3分の1を産出したと推定され,鉱石採掘のために掘られた「間歩(まぶ)」と呼ばれる坑道が600あまりも発見されています.左の写真は,17世紀初めころに開発されたとされる釜屋間歩で,上下に黒く筋のように見える銀鉱脈に沿って掘り進んだ様子がうかがえます.また,近くで灰吹法と呼ばれる製錬作業が行われていた跡も見つかっています.

 

右の写真は明治27(1894)年に建設が開始された近代的な清水谷製錬所跡です.このように,石見銀山には400年にわたる銀の生産活動はもちろんのこと,生活・流通・信仰・支配に関わる遺構・遺物が良好に残っています.「石見銀山遺跡とその文化的景観」は,平成19(2007)年7月に世界文化遺産に登録されました.

 

 


Vol. 89 No. 8「足尾銅山(栃木県日光市)」

足尾銅山は16世紀中には採掘が始められたと考えられており,慶安元年(1648年)には徳川幕府の御用銅山となりました.産出された銅は,江戸城,芝の増上寺,日光東照宮などの銅瓦に用いられ,貞享元年(1684年)には1500トンの生産量を記録しましたが,その後は徐々に低下し,江戸末期にはほぼ廃山同然になりました.

明治10年(1877年)に古河市兵衛が銅山を買収,経営に着手し,近代的手法による鉱源開発を行った結果,富裕な鉱床を発見し,急激に発展しました.産銅量の増加に対応して,水力発電所や近代的な製錬所を建設したため,足尾銅山は東洋一の生産量を誇る銅山へと成長しました.しかし,一方では,製錬過程で発生する亜硫酸ガスや,重金属を含んだ排水による公害問題を発生させることになりました.公害防除技術を開発し,操業していましたが,足尾銅山は昭和48年(1973年)に閉山し,昭和63年(1988年)には製錬所の稼働も停止しました.

 

上の写真は,明治17年(1884年)に開設された本山製錬所の跡です.また,明治18年(1885年)に開削が始まった通洞抗の一部は見学することができます(右の写真).

 

 

 

 


Vol. 89 No. 9「佐渡金山(新潟県佐渡市)」

佐渡金山は,慶長6年(1601年)に山師3人により開山されたと伝えられています.慶長8年(1603年)には徳川幕府直轄の天領として佐渡奉行所が置かれ,小判の製造も行われました.明治2年(1869年)には官営佐渡鉱山となり,西洋人技術者を招いて機械化・近代化が図られました.その後,明治29年(1896)年に当時の三菱合資会社に払い下げられ,日本最大の金銀山として拡大発展を遂げました.平成元年3月(1989年),残念ながら資源枯渇のため操業を休止し,400年近くに及ぶ長い歴史の幕を閉じましたが,佐渡金山の金鉱脈は,東西3,000m,南北600m,深さ800mに広がっており,江戸から平成まで388年間に産出した金は78トン,銀2,330トンにのぼります.

 

 

写真は,かつて「東洋一」と言われた金銀抽出施設の跡地「北沢浮遊選鉱場跡」です.明治18年(1885年)に当時最先端の西洋技術を導入し,金属と岩石を選別する「選鉱場」と「精錬施設」が建設されました.その後昭和13年(1938年)に国を挙げて大増産が始まり,月間7万トンの鉱石処理が可能な東洋一の規模と言われる浮遊選鉱場が完成しました.そして昭和27年(1952年)の佐渡金山の大縮小により閉鎖されました.

 

 


Vol. 89 No. 10「神子畑鋳鉄橋(兵庫県朝来市)」

神子畑(みこばた)では,明治11年(1878年)に優良な銀鉱脈が発見され,明治14年(1881年)に本格開坑しました.その鉱石運搬のために道路が必要となり,神子畑-生野間16.2km,幅員3.6mの馬車道(鉱山道路)が建設され,多くの橋が架けられました.この工事は明治16年(1883年)4月に始まり,明治18年(1885年)3月までの2年間にわたる大工事であったとされています.この馬車道が神子畑川を横切るときに架けられたのが神子畑鋳鉄橋です.馬車道には,当時それぞれ構造の異なる5つの橋が架けられていましたが,現存するものは,神子畑鋳鉄橋(橋長16mの1連アーチ橋)と羽渕鋳鉄橋(橋長18mの2連アーチ橋)の2つのみです.

 

 上の写真は,神子畑鋳鉄橋です.神子畑鋳鉄橋は日本に現存する鉄橋としては,3番目に古いとされていますが,一番目の大阪の心斎橋は錬鉄製で,二番目の東京の弾正橋は錬鋳混用です.従って,本鋳鉄橋は全鋳鉄製の橋としては,日本で最古の橋となります.右の写真は羽渕鋳鉄橋です.

 

 


Vol. 89 No. 11「橋野高炉跡(岩手県釜石市)」

橋野鉄鉱山で採掘された鉄鉱石を製錬し,銑鉄を大量に得るために造られたのが橋野高炉です.橋野高炉跡は,近代製鉄の父である大島高任の指導により築造された現存する日本最古の洋式高炉跡であり,3基の高炉が確認されています.安政5年(1858年)に建設された仮高炉が,元治元年(1864年)頃に改修されて三番高炉となりました.一番高炉と二番高炉は,万延元年(1860年)頃に完成しました.現在は,花崗岩の石組が残っています.橋野鉄鉱山は,高炉をはじめとするその当時の遺構群が採鉱から搬出という一貫したシステムがわかる状態で保存されており,日本の近代化を理解できる史跡です.「明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼・造船・石炭産業」の構成遺産の一つとして世界遺産に登録されています.

上の写真は,三番高炉です.花崗岩の基壇2段の上に約5.4m四方,高さ2.8mの花崗岩の石組(5段)が積まれており,四隅には縦長の花崗岩が配置されています.当時の高さは約7.0mあったそうです.


Vol. 89 No. 12「菅谷たたら山内 高殿(島根県雲南市)」

島根県東部の出雲地方では,約1400年前から「たたら製鉄」と呼ばれる砂鉄と木炭を用いる鉄づくりが盛んに行われていました.江戸時代後半から明治にかけての最盛期には,全国のおよそ8割の鉄が当地を中心とした中国山地の麓でつくられていました.菅谷たたら山内は,雲南市吉田町の田部家が経営していた「たたら師」たちの集落で,高殿はたたらの中心をなす土炉の覆屋であり,全国で唯一現存する建屋です.菅谷高殿は宝暦元年(1751年)から大正10年(1921年)までの170年にわたって操業が続けられました.建物は,10間(約18.2m)四方,棟までの高さ28尺(約8.5m)で,中央にある4本の押立柱が架構の要となっています.

 

上の写真は,山間に静かにたたずむ菅谷高殿です.内部の中央には右の写真のように,土炉が設けられ,奥の中央には砂鉄を,その両側には炭が置かれます.炉の左右には,操業を差配する「村下(むらげ)」以下の控室があります.