広島鋳物組合の組合員だった野間鋳造所の明治一桁生まれの創業者の記憶を昭和初期生まれの孫が綴ったもの。
鋳造工学会中国四国支部の「こしき」5号に投稿された記事を、組合HPに引用した
「鋳物師.com」の 番外編 読み物:祖父の話 の記事をご紹介。
原文は、 http://imonoshi.com/rekishi_bangai/rekishi_bangai02.html
既に、故人となられた先輩方が、科学と分析計器や機械設備がなかった中で、経験と勘で鋳物作りを行った時代が、身近に感じられる。
先人の話も、こうして文字にしないと伝えることができず、また皆が見えるところに置かないと読んでもらえない。
祖父の話
(株)野間鋳造所 野間 孝
私の組父は天保2年創業の瀬良鋳物工場(広島広瀬村)に勤めていた。明治34年30才の時,2年間,神戸に修業に行き帰広後,しばらくして職長になり,42才になって竹屋村で独立した。
私は小学校の頃から父が下戸のため祖父の晩酌の相手をつとめ,中学を卒業する迄は祖父に育てられたといってよい。祖父は口やかましい人で,家族の多くは敬遠していたが,私丈は不思議と叱られた記憶がない。それは私が初孫であったためと思われる。私共昭和1桁生れも,現在初孫をもつ身分になって来たが,お互いに孫をもった気分は格別である。
祖父は昭和32年10月,82才で病没した。祖父の話には史実とかけはなれたものが多い。例えば毛利が広島から山口に移ったのは広島の土は握ってもよく締まらないが,山口の土はよく締まる。人心も同じで百万一心の毛利が広島から山口に移ったのはそのためである。従って鋳物砂も山口の方がよろしい。他所の工場を訪ねた時は,先づそこの砂を握って見るとよくわかる。握ってみてよくしまるのはよいが,手を開いた時,手のひらに砂が附着するのはよくない。
第1次大戦迄は送風はタタラによる。小学生が帰校後,アルバイトでタタラを踏んだ。両親の気嫌の悪い時は,来てもらえない事もあった。
鋳物は生きものである。不良は化け物である。鋳物場を化け物屋敷にしてはいけない。
コシキを操業する場合,初込には特に消化のよいものを食べさせなさい。地金は小さく,溶け易いものをくべた方がよい。炉内の温度が順調になれば少々太目の地金を入れても良い。ノロはウンコであり,湯は血液である。便の出がよくないのは体調の悪い証明になる。送風機は心臓であるから送風機の弱いコシキは病人である。病人に仕事をさせるのは土台無理である。
鋳物は常に息をしている。湯を注いでやると息がつまるからガス抜きを充分にして楽に呼吸ができる様にしてやらなければならない。穴の位置,大きさで職人の価値がきまる。
東照宮造営にあたって,大久保彦左衛門は左甚五郎を推せんしたが出来た作品は他の彫物師の作品と大分見劣りする。彦左は勘定奉行に文句を言われる。そこで甚五郎を呼んで聞く。甚五郎日く。「この彫物はあの高い処に取付けられるのですよ。」全く取付けて見ると他の作品を圧倒した。そこで彦左が「お前,そんな乙とで勘定奉行がつとまるか。」と叱り飛ばすのである。鋳物においても然り,どこに取付けられるかによって,鋳肌,材質を考えねばならない。
赤穂浅野は6万石に過ぎた家来をもった,少数精鋭で行け。
43万石の城下町に出来ないものがあろうか。広島に生れたことを誇りに持て。
徳川が15代続いたのは3代将軍家光公が名君であったからである。
以上,祖父の話を思い出すまゝに書いた。祖父としては3代目がうまくやって呉れることを願ったのであろうが,残念ながら小生を名君と言ってくれる人は未だいない。
こしき5号より
この文は支部創立30周年記念号に寄稿されたものです