岡山の鋳物組合(岡山県鋳造工業協同組合)が、平成6年に174頁もあるハードカバーの立派な組合史を上梓していた。

たまたま会社の書架にあったのを見つけ開いて驚いた。遠く古代の日本に鉄器が入ったころから、たたら製鉄、その後の変遷、明治以降に岡山市内の10名ほどの銑鉄鋳物屋で修行した青年たちが独立し起業し、2023年現在の岡山のそうそうたる鋳造業の礎となった苦難・苦闘が如実に書かれているではないか!

現在では世界3大船舶用超大型プロペラ鋳造メーカーになったナカシマプロペラ、自動車鋳物などを製造し岡山一の生産量の武田鋳造も、その創業した青年たちは岡山市内の10人ほどの銑鉄鋳物工場で修行し、独立して起業したのだと。創業者の長男が下記部分を執筆していた。

 

ナカシマプロペラ株式会社 中島保 6.近代岡山の鋳造業の概況(p67-p78)より部分引用
>明治39年、私の父、中島善一は、15才で「西崎鋳造所」の見習工になりました。西崎鋳工所は内山下にあり、従業員が10人ほどで鍋、釜、機械部品などの銑鉄鋳物を造っていました。
<中略>
この西崎鋳造所には、武田さん、太田さん・・・私の父などが相前後して入所し、鋳造技量の修行に励んでいました。
<中略>
武田さんは倉敷で「武田鋳造所」を創設、父は大正15年に下石井で「中島鋳造所」を創設して銅合金鋳物業を始められました。
<引用終わり>
注:内山下(うちさんげ)は岡山城の東に隣接する市街地域。

 

中島青年は、大正3-5年に八幡地区や大阪の久保田鉄工所などで修行し西崎鋳造所に再び入り、その後独立したと。彼は、銑鉄鋳造の修行先に迷惑かけまいと銅鋳物を始めたが、不況で仕事が来ずに貧乏にあえぎ、粥をすすりながら幼い子供も手伝って、銅滓を砕き近所のどぶ川でお盆で水洗し、砂金取りの要領で材料銅回収も行っていたと。
武田鋳造も創業当初は悪戦苦闘。

明治・大正・昭和初期は、鋳物は小さなこしきやキュポラで溶解でき、鋳物砂はスコップなどでかき混ぜて混錬し、設備費用も少なくて済み技術と志があれば起業ができたようだ。

第2次大戦前やその前後は、日本随一の農業県と農業器具生産県で、当時は牛に引かせる犂(すき)の銑鉄鋳物が多かったことや、戦後の焼野原で復興を誓った青年たちが食糧増産に協力して寝食忘れて、官と協力して配給材料調達や鋳物生産に奮闘したことなどが生き生きと描かれていた。

それらの企業が今や世界に雄飛する有名企業に成長したことを知ると、創業者の苦労と奮闘に頭が下がる。

資料紹介 牛の博物館 https://www.city.oshu.iwate.jp/section/ushi/02_tenzi/02-01.html

再現展示しているのは、主に西日本に普及していた長床犂による水田の耕起の様子です。長床犂は、別名、唐犂とも呼ばれ、中国から伝わった犂です。

長床犂による水田の耕起(復元)

長床犂による水田の耕起(復元)
昭和初期

コトバンク から 犂(すき)の画像紹介 図の先端にある へら や 犂先の金物が鋳物のようだ。

 

 

ナカシマプロペラ 現在の製品例 (HP)より

一方、戦争と統制で材料の調達や割り当てをめぐり足の引っ張り合いが絶えず、団結を呼びかけたアルミ鋳造の鴻上芳雄さんが昭和29年になり組合結成を呼び掛け、県内の鉄・アルミ・銅合金などの鋳造業17社が結集して昭和30年10月に組合を結成したと。
その後、銑鉄の配給を受けるために組合員を銑鉄鋳物専業に限定することとなり、幾多の変遷を経て現在の組合になったと。

青年よ、大志を抱け!
今ある大きな企業、ゼロから創業したのは、君たちの年代の若者たちだったのだ。

書誌詳細(岡山県立図書館)

この資料の書誌詳細情報です。

出版者・発行者岡山県鋳造工業協同組合出版地・発行地岡山

書誌種別 郷土図書
タイトル 岡山の鋳物
タイトルヨミ オカヤマ ノ イモノ
人名・出版者・発行者 岡山県鋳造工業協同組合/編集
出版・発行年月 1994
ページ数または枚数・巻数 147p
大きさ 26cm

文責:藤原愼二