第88巻シリーズ「鋳物の産地の今」

Vol. 88 No. 1「銅合金鋳物製不凍湯水混合散水栓」

平成27年度Castings of the Year賞受賞作
株式会社光合金製作所


Vol. 88 No. 2「北海道型ジンギスカン鍋」

平成27年度Castings of the Year賞受賞作
岩見沢鋳物株式会社


Vol. 88 No. 3「河内鋳物師の里」

「河内鋳物師」は,平安時代から室町時代にかけて,高度な鋳造技術を持ち,鍋・釜などの日用品や梵鐘などの仏具を作っていた技術者の集団です.河内国丹南郡(現在の堺市美原区近辺)あたりを本拠地にして活動していたようです.全国各地の梵鐘なども手掛け,東大寺の大仏再建や鎌倉の大仏の鋳造にも参加しているとのことです.また,この鋳物師たちは地方に移り住み,鋳物の技術を各地に伝えたと言われています.

 

表紙の写真は,美原区黒山に残る古い町並みです.河内鋳物師が活躍したころの町並みではありませんが,懐かさが感じられます.近くには,鋳物師たちが祭祀した「鍋宮大明神」があり,「日本御鋳物師発祥地」の碑が立っています.また,「みはら歴史博物館」では,鋳造に関する展示がされています.一度訪れてみてはいかがでしょうか.

今月号から各地に残る鋳物のふる里を訪ねます.


Vol. 88 No. 4「キューポラのある街」埼玉県川口市

「キューポラのある街」として全国的に知られている埼玉県川口市は,古くから地場産業として鋳物工業が発達し,中世末期には鋳物が製造されていました.江戸・東京といった大消費地に隣接し,荒川や芝川から産出する良質な砂粘土が鋳型の製造に有利であったこと,運搬・労働力の面でも恵まれていたことなどで,川口に鋳造業が発展・定着したと言われています.主な製品は小型神仏具・鍋・釜・鉄瓶といった生活用品が主流でしたが,大正から昭和にかけて技術革新の成功により,川口の鋳物は諸産業機械の部品・パーツに関わる製品の大量生産へと転換していきました.日本の高度経済成長を支えた重要な地域の一つです.近年は産業の空洞化や賃金の安価な諸外国との競争など,様々な問題に直面し,生産を中止し,マンションや駐車場に変わる工場が増え,昔の面影はすっかりなくなってしまいました.

 

写真は,川口駅前に立つ鋳物の像です.また,川口市立文化財センターには鋳物資料室があり,鋳物の歴史や数多くの鋳物が展示されています.


Vol. 88 No. 5「広島県広島市可部の鋳物」

良質の砂鉄が採れる中国山地では,6世紀頃に「たたら製鉄」が始まり,江戸時代後期から明治時代初期にかけて最盛期を迎えました.広島では,13世紀から鋳造業が始まり,その集積地となった可部でも16世紀から鋳物が作られるようになりました.可部は,現在はエンジンやポンプなどの自動車や機械用の鋳物を生産していますが,古くは,鍋,釜,五右衛門風呂などを生産してきました.かつては,広島の風呂釜生産は全国の80%を占め,その内の70%が可部産であったと言われています.

 

可部駅近くの明神公園には,右の写真の「鉄燈籠」が保存されています.この燈籠は,文化5年(1808年)に可部町の鋳物師である三宅惣左衛門により鋳造されたもので,可部鋳物の歴史を現在に伝える最古の遺品とされています.


Vol. 88 No. 6「鋳物の街」三重県桑名市

三重県の北部に位置する桑名市は,古来より鋳物の製造が盛んで,その起源は,江戸時代桑名藩の初代藩主となった本多忠勝の命による鉄砲の製造に始まったと言われ,銅合金による鋳物が中心で,神社仏閣の燈籠,梵鐘,鍋釜類,農具などを作っていました.明治時代になると銑鉄を使用した鍋釜,焚口などの家庭用品を生産するようになり,次第に電気や機械のための鋳造部品の生産を開始し,「東の川口,西の桑名」とも呼ばれ,日本の二大鋳物産地の一つとして成長しました.昭和40年代後期には200社を超え,生産量は年20万トン以上でしたが,現在は30社程度になってしまいました.そこで,三重県鋳物工業協同組合が中心となり,桑名の鋳物産業を盛り上げようと活動しています.

 

表紙の写真は,市内の春日神社の青銅の鳥居で,藩主松平定重が鋳物師辻内種次に日本一の青銅鋳物の鳥居にするよう命じて作らせたと言われています.また,桑名市西部にある多度大社には天照大神が岩屋戸に隠れた際に刀,斧などを作って活躍した天照大神の御孫神である天目一箇命(あめのまひとつのみこと)が別宮で祀られており,鉄工・鋳物をはじめとする日本の金属工業の祖神,守護神として全国の関連業者が参拝に訪れています.


Vol. 88 No. 7「岩手県奥州市の水沢鋳物」

南部鉄器の一つである水沢鋳物の歴史は,平安時代後期に藤原清衡が江刺郡豊田館(現在の江刺区)に近江国(滋賀県)から鋳物師団を招いたのが始まりだと言われています.豊田館周辺は砂鉄,北上山系の金,銀,銅,鉄資源に恵まれ,良質の川砂,粘土,木炭が得やすく,北上川舟運の便利なこともあり鋳造地として選ばれたものと見られています.やがて清衡が平泉に居を移すも,鋳造適地は北上川河道の移行影響を受けて,現在地の北上川中洲微高地,田茂山地帯に一大鋳物師集落が形成され,現在の水沢鋳物にその伝統が受け継がれているということです.

 

表紙の写真は,JR水沢駅に毎年6月から8月に飾られる南部鉄器の風鈴です.そろそろ,梅雨明けが待ち遠しいですね.また,水沢江刺駅前にあるジャンボ鉄瓶は,高さ4.65m,重さ1.8tで日本一のサイズです.


Vol. 88 No. 8「芦屋釜の里」

芦屋釜は,南北朝時代(14世紀半ば)頃から筑前国芦屋津金屋(現在の福岡県遠賀郡芦屋町中ノ浜付近)で活躍した鋳物師たちによって造られた鋳鉄製の茶の湯釜です.「真形(しんなり)」と呼ばれる端整な形と胴部に表される優美な文様が今日の貴人達に好まれたということです.室町時代に一世を風靡した芦屋釜でしたが,その製作は江戸時代初期頃に途絶えます.しかし現在でも芦屋釜の芸術性や技術力は非常に高く評価されています.

 

芦屋町には芦屋釜の復興に取り組む芦屋釜の里という施設があり,3000坪の日本庭園の中に,芦屋釜復興工房,資料館,大小の茶室などが点在しています.表紙の写真は,復興工房で,釜の製作に取り組んでいます.また,中ノ浜には鋳造所跡の碑がひっそりと建っています.


Vol. 88 No. 9「天明鋳物」栃木県佐野市

下野国佐野天明(栃木県佐野市)の地で作られた鋳物あるいは佐野の鋳物師によって作られた鋳物が天明鋳物と呼ばれています.天明鋳物は平安時代中期の天慶年間(934 ~ 947年)に河内国丹南(大阪府)から5 名の鋳物師が移住し,藤原秀郷の命により兵器類を鋳造したのが始まりと伝えられています.天明鋳物の最盛期は,室町時代から江戸時代と言われ,安土桃山時代には,天明鋳物の茶釜は,福岡県の芦屋釜と併せて,「西の芦屋、東の天明」と並び称されました.

 

佐野の鋳物師も少なくなってきているようですが,佐野市観光協会が鋳物関連の史跡を回るマップを作成しています.表紙の写真は,かつて佐野鋳造所として操業していた鋳物工場で,明治時代に建てられた煉瓦造りのキュポラの建屋跡です.また,惣宗寺には,明暦4(1658)年に天明鋳工105人が合作して寄進した重さ1125kgの銅鐘があります.これは天明鋳物の中でも代表的な作品です.


Vol. 88 No. 10「山形鋳物」山形県山形市

山形鋳物の起源は,東北地方で前九年の役が起きた平安後期に源頼義軍と一緒に山形に来た鋳物職人が,馬見ヶ崎川の砂や付近の土が鋳物の型に適することを発見し,鋳物づくりを始めたことによります.江戸時代に入ると,山形城主の最上義光は,商工業の発達を目的に城下町を大きく再編し,馬見ヶ崎川の北側に火を扱う鍛治町と銅町を置き,他の職人町と同様に人足役を免除して優遇しました.銅町の鋳物職人は,鍋釜などの日用品や仏像を生産するようになりました.江戸時代中期には仏像,梵鐘,燈籠などの大きな鋳物を作る技術も確立し,明治期に入ると,鉄瓶や茶の湯釜などの美術工芸品も作られるようになります.大正期以降は全国的に機械化が進んだことで,機械製品の分野が発展し,機械分野と工芸分野が同居する産地へと変化しました.現在では,工芸品が中心の銅町と,機械製品が中心の新しい鋳物町(西部工業団地)との二つの生産地となっています.

 

表紙の写真は,明治28(1895)年に名工・小野田才助が鋳造した立石寺の金燈籠です.また,鋳物町には山形鋳物の歴史や技術を展示している山形市産業歴史資料館(写真右)があります.


Vol. 88 No. 11「能登中居鋳物」石川県鳳珠郡穴水町

中居鋳物の歴史は平安時代末期までさかのぼると推測されています.特に室町時代から江戸時代にかけて多くの鋳物製品が生産され,江戸時代には鍋や釜といった鋳鉄品が多く製造されました.また,加賀藩の塩専売制を受け,塩造りで用いる塩釜を製造して能登沿岸の村々に貸し付ける“貸釜”を行い,最盛期には貸釜2,000枚を数えるほど繁栄しました.しかしその後,安価で丈夫な高岡産の釜などの進出に押されて徐々に衰退し,中居の鋳物造りは大正13年に廃絶しました.

 

表紙の写真は,明治時代の塩釜で,口径164cm,深さ21cmの大釜です.かん水で約450L入り,80kgの塩を製塩することができます.中居には能登中居鋳物館があり,中居鋳物に関する貴重な鋳物や鋳物師に関係する古文書を展示しています.また,近くの浜には大正13年に廃絶した中居鋳物最後の鋳造所跡(写真右)がひっそりとたたずんでいます.


Vol. 88 No. 12「高岡市金屋町の町並み」高岡鋳物:富山県高岡市

高岡城を築いた加賀藩第二代藩主,前田利長が,慶長16(1611)年,城下町繁栄における産業政策の一環として,砺波郡西部金屋(現在の砺波市)から7人の鋳物師を招き,高岡市金屋町に工場5棟を建てたことが高岡鋳物の始まりです.金屋町のほとりを流れる千保川により良質の川砂と大量の水が使えた鋳物師たちは,加賀藩の手厚い保護を受け,高岡の鋳物は大きく発展しました.当初は鉄鋳物の生産が主流でしたが,18世紀後半には,梵鐘や火鉢などの銅鋳物の生産が始まり,高岡は銅器の一大生産地として発展しています.

 

表紙の写真は,金屋町の町並みです.金屋町には江戸時代から昭和初期に建てられた町屋が建ち並んでいます.町屋の特徴としては,切妻・平入り,登り梁構造で,真壁造りの柱と漆喰壁のコントラストや正面の格子が繊細な美しさを醸し出しています.作業場は防火を意図して敷地の一番奥に建てられています.また,高岡には昭和8(1933)年に高岡の鋳造技術の粋を集めて作られた高岡大仏(写真右)があります.